さまざまな家族の形を綴った「木陰の物語」を読み
「私の場合はこう、私はこう思う」と感じたことを書き込んでください。
この場が家族を学ぶきっかけになれることを願っています。
書籍未収録
*会員限定オンライントーク「“木陰の物語”の物語vol.5」での取り上げ作品です
他人との境目が、深くなってるのが、今の時代なのだなぁと、思いました。
私(53歳)が若い頃は、まだどんぶり鉢でおかずの行き来がありました。
そういえば、お客様が泊まりに来ることも、もう何年ないかしら、、
自分含め、今の個人主義の社会は、楽なようで、皆がそれぞれの首を絞めているのだなぁと、感じました。
地域の互助機能を育てる立場の仕事をしていますが、これは簡単ではないなぁと、改めて感じました。
ぐずぐずな関係、ルーズ、おおらか、鈍感、テキトー、言い方によって、捉え方によって雰囲気は変わるけれど、
本人がそれでいいなら傍の人はいろいろ言うことではないし、
「フツー」なんて人によっても違うし、そんなことを言われても気にすることもないなと思っています。
山崎さんのお話を聴いて、おとなの言うことすることを子どもたちはよく見ているし、
影響するということを、おとなは知っておかなければならないと改めて思いました。
また、いつ被災者になるかわからない現状を想定し、助け合える関係性を作っておくことは今後より必要になってくると思いました。
自他の境界が曖昧な相手に自分の領域と思っているテリトリーへの侵犯をされ、苛立つことが多くあります。それは自分の安全感を脅かされるように感じたり、相手の負担を負わされるように感じたりするからなのですが、曖昧さの良さもあるのだなと考えさせられる物語でした。
賃貸アパート暮らしをしているせいもありますが、ご近所付き合いはほとんどありません。玄関扉にはインターフォンがあり、セールスなどの訪問は気楽に断れる利点もありますが、互いに気楽に行き来することはない構造になっているとも思います。どちらにも良し悪しはあるのでしょうが、私にとってはどうだろうか?今の私には境界が明確な方が暮らしやすく思いますが、この先も同じだろうか?年を取って、仕事もやめ、どこにも「所属」がなくなったとき、果たして同じことを思うのだろうか?
明確な境界があることで守られるものもあるけれど、まったく人と関わらずに生きていくことも想像はできず。どの程度が自分にとっての最適解なのか。場所や年齢などでも変わっていくのかもしれないなら、その時々の自分を定点観測してみるのも面白いかもしれない、なんてことも感じた次第です。
前に勤めていた保育所でも色々な家庭の子がいました。
多様な家族の形をみていると、幸せって人それぞれだと思うし、自分のものさしを人に当てはめるのってどうなんだろうって思っていました。それもありでしょっていう柔らかさを私は持っていたいです。
昔、もしくは地域の、テキトーでおおらかなやりとりは、
幼少期そのような感覚で過ごした自分としては、それがフツーの感覚。
でも、住む地域が違うことや今の時代性を考えると、同じようには振る舞えないし、同じ感覚の人とそのように過ごしても、まわりの目にはどううつるのかはまたわからないなあと、感じる出来事がありました。
色々なリスクに思いを巡らせやすい今、そのことを踏まえた上で行動するのは大事だけれど、
過敏で窮屈な日常の中では、そのおおらかな地域性はどこかホッと安心する部分もある。そういう、気持ちを抜ける場所を身のまわりで開拓・確保しながら、両方自分の中で持ってバランスを取っていきながら、子育てしていきたいなあと思いました。
よかれと思って相手にすることで、自分の責任を問われるということが、皆さんが話していたように多くなった気がします。
一人でいた子に声をかけたら、知らない人に話しかけられても相手にしちゃだめだよと目の前で言われたり。
おばあさんが落とした物を拾ってあげようとしたら「構わないで」と言われたり。
ゆるくつながっている世の中ではないんだなと思うことがしばしばです。
物語の中の地域はいっけんごちゃごちゃだと思いましたが、暮らすにはいいのかもしれないなーと思いました。
遠くの家族より近くの知人。