さまざまな家族の形を綴った「木陰の物語」を読み
「私の場合はこう、私はこう思う」と感じたことを書き込んでください。
この場が家族を学ぶきっかけになれることを願っています。
3才と5才離れた従姉妹がいて、洋服はほとんどお古だった。サイズ的にもちょうどいいタイミングで回ってくるし、都内に住む二人は小さい頃から買い物好きで、おしゃれなものをたくさん知っていた。だから、使い込まれたものに何の抵抗もなく、むしろ、安心感を持って接していた。ボタンを変えるとか、家具ならペンキを塗るとか手を加えて楽しんだ。
でも、自分の子どもに対してはどうだったか、手作りはしても、何不自由なく与えてしまったかもしれない。唯一、テレビがなかったことくらい。未だに前の日の番組の話題についていけなくて悲しかったと言われるが、そこから学んだことも多かったはず、と思うことにしている。
「家族の練習問題」(ホンブロック刊)が出版された時、真っ先に見せて喜んで欲しかったのは妻だった。話のあちこちに登場するし、私が家族を考える原点も夫婦にあったからだ。出版社から届いたできたての一冊を彼女に手渡した。
しかし「おめでとう」と受け取ったものの、読み終えた表情は、私と同じ程には弾けなかった。理由は62ページ『自転車泥棒』の一コマだ。これを指して、「私は絶対に、こんなことは言わなかった!」と言った。
確かに、この通り言ったかどうかは分からない。でも物語の展開として、こういう台詞が登場するのはおかしくないし、作品の登場人物として、別に悪い人なわけでもない。
「事実がどうであったかなんて、詳細には覚えていないけど、いいじゃないか、それくらいのニュアンスの違い……」と私は不満だった。
「新しい本が出て、凄く喜んでいるのは分かっているから、水を差したくなかったけど……、ごめんね」と言われて、それ以上、何も言えなかった。
そうなのだ、人の感性はみな異なる。待望の新刊がこの一コマで、一緒には喜べないものになってしまったように、人生にはそんなことがたくさんあるのかもしれない。
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団士郎さんの「木陰の物語」の物語・コメント抜粋です。